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花火大会に盆踊り、暑い季節のファッションに欠かせない浴衣。
もちろん、日本舞踊のお稽古でも大活躍しています。
いまイチバン身近な着物「浴衣」の変遷をたどってみようと思います。
この夏、浴衣を着るときに思い出していただけたら嬉しいです。
前半の今回は、浴衣とお風呂のお話です。
|湯帷子(ゆかたびら)
「浴衣」の語源は「湯帷子(ゆかたびら)」です。文字からもわかるように、浴衣はお風呂とともに
進化してきました。お風呂の始まりは、奈良時代。藤原不比等の娘で、東大寺を建立した聖武天皇の夫人
だった光明皇后が、病人や孤児を保護したり、治療や施薬を行っていた施薬院に「カラ風呂」を作ったのが
日本最古のお風呂といわれています。「カラ風呂」は蒸気を使った蒸し風呂、いわゆるサウナでした。
ちなみに、諸説ありますが、この蒸し風呂に入るとき、蒸気で火傷しないように敷いた布が「風呂敷」の
起源だといわれています。
そして、平安時代、貴族が入浴するときに蒸気で火傷をしないように着たのが浴衣の始まりといわれています。
麻の単衣が「帷子」と呼ばれていたので、入浴のときに着る帷子を「湯帷子」と呼ぶようになりました。
湯帷子は、汗をとったり火傷を防止したり、また複数人で入浴するので身体を隠す目的で使われていました。
その後、室町時代になると「身拭い(みぬぐい)」とも呼ばれるようになり、安土桃山時代には、湯上りにも
着て余分な水分を吸い取らせるために使われるようになっていきました。
|江戸時代
江戸時代になると、木綿が国内でも作られるようになり、一般庶民の着物の素材が麻から木綿に変わって
いきます。またこの頃、銭湯も普及してきます。この頃の銭湯は、湯船に深さ30cmほどのお湯を入れて
周囲を囲み、下はお湯に浸かっていて上半身は蒸し風呂という、湯船と蒸し風呂をミックスしたものでした。
石榴風呂(ざくろぶろ)と呼ばれ、名前の由来にもなった石榴口(ざくろぐち)という入り口を低い位置に
つくって浴室の蒸気を逃がさないようにしていました。当時は混浴で、石榴口を通ると男女が一緒になる構造に
なっていました。当然ですが、それが風俗上よくないとされ、女性は浴衣を着て男性の目線を遮っていました。
江戸後期からは規制が厳しくなり、浴室は男女別々に分けられ、浴衣は湯上がりに着るようになります。
入浴後、銭湯の2階で浴衣を着て、話をしたり、将棋をしたりしてゆっくりとした時間を過ごすようになると、
浴衣の模様にも関心が集まり、浴衣の模様を収録した雛形本などもできていきます。また、贅沢を禁止した
天保の改革では、町人は絹を着てはいけないという倹約令が出され、綿の浴衣は益々広まりました。
昼間の外出着には使われませんでしたが、夕涼みや蛍狩り、花火見物といった夏の夜の外出着の定番となり、
錦絵などにも数多くの浴衣姿が描かれています。伊勢参りなどの集団旅行をお揃いの浴衣で出掛けたり、
雨合羽や煤払い等の作業用として浴衣を上に着ることもありました。そして、生地が傷めば仕立て直して
赤ちゃんのオムツとして再利用されました。まさに浴衣はSDGsの先駆けのような存在だったといえます。
島根県美術館新庄コレクションより 歌川広重作「東都名所 両国夕すずみ」
https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/shinjo/c-shinjo/h26.html
|最後に
いかがでしたか。入浴中に着るものだった浴衣が、お風呂以外でも着用されるようになったのは江戸時代で、
意外にも比較的最近の出来事でした。そして、江戸時代が終わるとまた違った広がりをみせることになります。
次回は、明治、大正から昭和初期にかけての浴衣のお話をしようと思います。
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